家系図づくりのきっかけ 〜戸籍を辿って見えてきた、曾祖母と曾祖父の人生〜

家系図つくり

きっかけは、「戦没者慰霊金」の申請でした。
申請対象者は、父方の祖母の母(曾祖母)の兄弟。私にとっては曽祖叔父にあたる人です。
手続きのために戸籍を取り寄せたことが、私の“家系図づくり”のはじまりでした。

当時は事務的に戸籍を集めていたつもりだったのですが、曾祖母の戸籍を見ているうちに、いろいろなことが気になりはじめました。
そこに記されていたのは、想像以上に複雑な家庭環境。そして、曾祖母と曾祖父がどんな人生を歩んだのか——その背景が知りたくなり、自分で家系図を手書きでまとめはじめました。

親や祖父母から聞いていた話も合わせていくうちに、少しずつ“知らなかった家族の姿”が浮かび上がってきました。

調べて見えてきたこと

1.「本家」とされていた家は、実は赤の他人?

曾祖父は婿養子として入ったことがわかりました。
その後、最初の奥さん(つまり前妻)に先立たれ、曾祖母が後妻として迎えられたようです。

私の実家のあたりでは「うちは本家だ」「いやいや大本家はこっちだ」なんて言い合いをしていた親戚もいましたが(困ったものです)、家系図を辿ってみると、その“本家争い”をしていた人たちは実際には血縁のない「他人」だったことも判明。…似てないと思ったよ。

戸籍って、見方がわかると驚きの連続です。

2.曾祖父と曾祖母の人物像

さらに調べていくうちに、曾祖父は宮大工として働いており、53歳で亡くなっていたことがわかりました。
曾祖母はなんと、宮沢賢治と同じ年(1896年)生まれ。同じ花巻市で教員として働いていた経歴もありました。97歳で亡くなったのですが、80代過ぎてもオルガンに座ると沢山の曲を弾いでくれた「スーパーひいばあちゃん」でした。

祖母から聞いた話によると、曾祖母と祖母は、原敬(当時の総理大臣)の息子・原貢の家に出入りしていたこともあったようです。
当時のことを想像すると、まるで歴史ドラマのワンシーンのような、不思議な感覚になります。

家系図は個人でも作れる

こうして一つひとつ記録を読み解き、家族の話を聞いて書き留めていくうちに、
「家系図って戸籍の読み方さえわかれば自分でも作れるものだな」と。

ここから父方の父(祖父)の戸籍・母方の父、母方の母の戸籍を取得しました。

これからも、私自身の家系図を少しずつ整理しながら、
知られざるご先祖さんたちの足跡をたどるのと共に作り方を載せていきたいと思っています。

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